争族を防ぐ
相続の三種の神器

  最近、相続争いの話をしばしば耳にします。
戦後の世代交替期を迎えて、この相続問題は一般の日本人にとって初めて経験することなのです。戦前は、旧民法によって家督相続が定められており、相続が「争族」となる余地はあまりありませんでした。
もっとも最近までは、一般人にとって、「争族」してまで分与を受けるべき大きな財産もありませんでした。今の日本人の財産の大部分を占める不動産がこの様に値上がりし、ストックが増大化した状況となり、そこに「完全平等教育」を受けた世代が、戦後の民法のもとで相続人となってきて、「争族」は起こるべくして起きた社会現象となったのです。
相続が「争族」とならない様にすることは、本人(被相続人)の生前の最低果たすべき業務ともいえます。それは、今流行の相続税節税などよりさらに重要な事柄だと思います。その為には、本人が遺産分割についての、基本的な考え方をしっかり持たなければならないのです。
そこで、それについて一つの考え方を述べたいと思います。
ここでは一つのモデルとして、親の思いが跡継ぎへの期待を長男に傾けているという現実があること、そして自営業であることを前提として考えてみます。
そこでの遺産分割についての「三種の神器」は、第一.長男(長子)であること、第二.親の面倒をみること、第三.家業を継ぐということとなります。
この三種の神器を各一点として、相続人各人のカウントに応じて遺産分割を行います。得点三点ならば全財産、二点ならば2/3、一点ならば1/3の遺産分割を受けます。
例えば、長男が家業を継いで親の面倒をみれば、この長男は得点三点なので全財産を相続します。長男が家業を継いだが、親の面倒は次男がみれば、長男二点で2/3、次男が一点で1/3と分割します。あるいは、長男は家を出てサラリーマン、次男が家業を継いで、いったんは親の面倒をみたが、次男の嫁さんと親との折り合いが悪く、結局親は三男が面倒をみたとしたら、長男・次男・三男各人一点なので、相続財産は三等分にして分割します。
昔、生産手段が共同作業を前提とした農業においては、社会の最小単位は個人ではなく家族であり、農業生産性がさらに低かった時代には、その単位は大家族でありました。そして農業のスケールメリットを失わない様に、相続によって田を細分化してしまうことを禁止していました。今言う、戯け者(たわけ者)は「田分け者」を語源としていると言われています。この田分け禁止は「いざ鎌倉」の際の兵力動員能力にも関係していたようです。
現代の工業社会では、生産手段の単位は個人の労働力であり、また雇用の機会も家業以外に他に求めることができます。いわば「家族」や「一族」に頼らずに生きていける訳です。こうした社会では、現在の民法の均分相続は一つの考え方であり、本人一人に集中していた富の、子供達への再分配でもあります。
しかし、現代においても、私の提唱する「相続の三種の神器」の考え方は、あるいは旧民法的とお感じになる方もいらっしゃるでしょうが、以下によって納得して頂くことができると思います。
第一の、長男(長子)であることについては、将来に向かっての祭祀を誰に頼むのか。
第二の、親の面倒をみることについては、本人(残される配偶者も含めて)の老後の生活保障を誰に求めるのか。
第三の、家業を継ぐことについては、家業を守ることが一族子々孫々の繁栄につながった時代には、その家業承継者を誰に求めるか。家業を継ぐことが、後継者にとって必ずしも最良の選択ではなくなった現代では、若干意味が変わるとしても、家業は本人が長く生きてきて人生の足跡でもあり、地と汗と涙の結晶でもあるから、それを守って欲しいという、いわば親(本人)の願いを誰に果たしてもらうことができるのか。
こうして三種の神器という考え方は、これを受け継ぐ人にとってすべて義務であり、その義務を果たす見返りと、その経済的基盤を支える為に、遺産の分割を受けると言うこととなるのです。
いずれにしても、相続財産は親本人のものであり、親の意志が最優先します。いずれの考え方を取るにしろ、現民法による遺留分についての配慮も取り入れつつ、一本筋を通した分割計画を、早めに立案されたら如何かと思います。

(株)ハート財産パートナーズ 林 弘明


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